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エッセイ

小千谷日記 〜中越地震被災者の家族として〜

2004.06.17

エッセイ

第1章 その日の私
1.カイロプラクティック新御茶ノ水外来センターが揺れた

 10月23日18時ちょっと前、カイロプラクティック新御茶ノ水外来センターの業務も終りかけているところにその地震は起きた。かなり揺れたせいか、少し気持ちが悪くなった。
 何分も経たないうちに知人から連絡が入り、震源地が実家である小千谷であることを知った。「震度6強の地震が小千谷で起きた!?」驚くとともに信じられなかったが、すぐに実家に電話を入れてみた。しかし回線が込み合っていたため、繋がらなかった。何度も何度も電話を繰り返した後、ようやく繋がった。「思いが通じた!」そう喜んだのも束の間、やっとかかったその電話には誰も出なかった…
 実は地震の起きる一週間前、私は実家に帰省していた。その際、家族で地震の話をしたばかりであったというのに!その場にいられないもどかしさと家族の安否の心配がどんどん膨らんでいった。
 院長、尾口先生、成瀬先生が声をかけてくれたおかげで、少しづつではあるが冷静さを取り戻すことができた。しかし現状が分からないイラ立ちから、帰り道御茶ノ水駅まで一緒に歩いた成瀬先生と、何を話したかもあまり覚えていない。 
 たぶん父は祖母の介護で、病院にいる可能性があった。しかし、弟は実家の部屋にいたことだろうし、母は台所で夕食の準備をしていたことだろう。家族が皆揃っていることを願った。特に入院中の祖母は歩くことすらできないのだ。どんなにか心細い思いをしていることだろう。私は胸が締め付けられようだった。
 その日はたまたま浅草にいる親戚に家を訪問する予定であったので、私は御茶ノ水から浅草に向かった。

2.安否確認が取れない

 浅草の親戚の家に着いた。偶然、小千谷のはとこも仕事の都合で東京に来ており、久しぶりに再会した。彼とは生まれたときからの付き合いで、私が小千谷に頃は同じ敷地内に住んでいた。今は歩いて3分くらいのところにある。叔父と叔母とも久しぶりに会ったのだが、会うなり早々にテレビからの最新情報を教えてくれた。
 なんと震度5、6の地震が連発しているという。こんなことがあっていいのか!とにかくあまりのショックで、せっかく叔母が用意してくれた夕食も食べたかどうか覚えていないくらいであった。不謹慎とは思いつつも、唯一アルコールだけが気持ちを落ち着かせてくれた。
 テレビでは長岡、十日町の映像は映るものの小千谷の映像は出ず、ちゃんねるを色々変えても、市役所の関係者(おそらく友人のお父さんだと思われる)の電話でのコメントしか情報は得られなかった。
 市内全域での停電をはじめライフラインが絶たれていること、また本来対策本部となるはずの市役所の建物自体も危ないということが告げられていた。そのうちにヘリコプターからの市内上空の映像が映った。
 市内は停電であることがすぐに分かった。道路を車が列をなしていることにより、ヘッドライトの光の帯ができていた。市内のどの辺りが映っているのかは見当が付かなかった。たぶん皆が車で避難しようとしているのだろう。
 居たたまれない気持ちと、自分がそこに居られないことを心の底から悔やんだ。父さん、母さん、ばあちゃん、弟、みんなごめん。祈るしかなかった。

3.連絡が取れた!

 時間が経つにつれ、少しずつではあるが情報が入ってきた。まずは小千谷にいるはとこの兄とのメールのやり取りができた。とにかく小千谷は揺れが止まらないので、会社の事務所がある越路町に避難したとのことであった。周囲のことは全く分からないが、道はガタガタだし、山本山にある貯水池のダムが決壊しないか不安だ、という内容のメールであった。
 私の実家は信濃川の土手にごく近い場所にあるため、ダムの水で川が増水し、土手が流れたらひとたまりもないだろう。
 私自身も実家に電話をかけつづけたが、未だつながらない。とにかく小千谷をはじめとする、震源に近いところは情報の出力ができないようであった。
 そんな中、はとこの携帯と小千谷の友人と連絡が取れた。
 「やばい!家が崩れる!ごめん、切る!プー、プー」
 はとこの血の気が引いた。友人の家は年数が経っているから、倒壊の恐れがあるかもしれないと言っていたが、まさか本当に今まさに崩れ落ちようとしているとは!
 そうこうしているうちに、電話をかけ続けていた実家にようやく電話がかかった。奇跡だ!しかし、電話は鳴るものの、一向に誰も出ない。5コール、10コールと電話の音だけがむなしく聞こえてくる。なぜ誰も出ないのだろう。非難しているのならば良いが、まさか食器棚の下敷きになっているのでは…こんな不安な気持ちは、生まれて初めてだった。
 その後何度目かの電話でようやくつながった。
 「はい。もしもし」
 父であった。一瞬自分の耳を疑ったが、正真正銘父の声であった。
 父の声は、今まで聞いたことがないくらい慌しい様子であった。
 「揺れがひどすぎて、みんな畑に避難している。大丈夫だ。」
 「停電で真っ暗だし、揺れがずっと続いているから家にはいられない。いつでかいのが来るか分からないから、電話はすぐ切るぞ!」
 たまたま貴重品を取りに家に戻った父の声が聞けただけでも、ほっとした。こんなにほっとしたのも、生まれて初めてだ。
 すぐに埼玉のおばに電話をした。連絡が取れたことと、みなが無事だとわかった嬉しさで、話そうにも涙が溢れて声にならなかった。電話を代わってもらって、おばに状況を説明をしてもらった。
 よかった…
 でもなぜ自宅の電話はつながったのだろうか?
 実は実家の電話は旧来から使用している黒電話で、停電に影響されなかったからだと思われる。この時代、ものの豊かさから利便性ばかりが求められる傾向があるが、こんな時に昔のものが役に立つとは驚きである。

第2章 10月24日 その日の私
1.どうするの、これから?

 夜が明け、5時半には目がさめた。
 テレビは一晩中つけたままで、毛布に包まったまま寝てしまったようだ。昨夜は叔父・叔母・はとこと、テレビのニュースでは伝えきれていない部分の予測を話し合った。ただ、知る上での情報については、小千谷出身の友人にメールや電話で連絡を取り合った。また、他の友人たちからは励ましの言葉や、心配する連絡ももらい、とても心強かった。
 寝ぼけ眼で、地震から一夜明けた小千谷の映像を見た。旧家の壁が崩れていたり、石の塀が倒れていたり…全壊した家も映っていた。どれも私の実家の近所で、子供の頃から慣れ親しんだ場所である。想像以上の被害状況を目の当たりにし、言葉を失ってしまった。私の家はどうなっているのだろう。時間が経つにつれ、市内のあらゆる場所の映像が映るようになった。 水や物資の配給もされていた。そんな中、私は気が付いた。
 「本家だ!」
 昨夜から一緒にいたはとこの実家であった。実は浅草の叔母の家も、この本家なのであった。
 とにかく無事なようで安心した。近所の知っている人もテレビのインタビューに出ていたが、まずは元気そうなので何よりだった。家屋も被害はないようであった。
 正直、このときはまだ自分が何をするべきなのか全く考えていなかった。気持ちが焦るという訳ではなく、有事の際の行動計画を日頃全く考えていなかった結果だ。今、小千谷に行って、何か役に立つことはあるだろうか?逆に邪魔になるのではないだろうか?でも、家族のことを考えると、すぐに飛んでいって一緒に困難を受け入れたかった。
 病院には祖母がいる。病院の映像もたくさん流れた。おそらくこの中に祖母もいることだろう。地震によるけが人もたくさん病院に搬送されており、院長が受け入れが困難であるというコメントを残していた。
 時間が経つにつれ、地震の被害で亡くなった方々の報告も増えてきた。高齢者の地震によるショック死が多くを占めていた。どうかどうか知っている名前が出ないでくれ!そしてこれ以上犠牲者が増えないでくれ!そう祈るしかできなかった。
 朝ご飯を頂いてから、やっと前向きな意欲が湧いてきた。私は警備の仕事の経験があるので、多少ではあるが知識はあった。ライフラインが寸断されている現在、必要なものはすぐに頭に浮かんだし、その用意の段取りもすぐにできた。
 ところで、地震の規模を表す単位に「ガル」というものがある。東京で感じた揺れは100ガル程度であったが、今回の地震では最大1200ガルの揺れが計測されたという。恐ろしい規模である。想像すらできない。そして地震が発生してから2日目の今日も、震度4を越える余震が続いている。。人間の耐えられる限界を越えてしまっている、と私は思った。そして決断した。小千谷に帰ろう!

2.今日の安否情報

 今日も朝から何度か実家と連絡をとろうとしたが、昨日同様回線がパンクしてるようでなかなかつながらず、またつながっても誰も電話に出ないという状態が続いた。家の側にいるのか、それとも避難所に行ったのか?考えていても仕方がないので、何人かの親戚に電話をし、小千谷の父と連絡が取れ、家族が無事であることを伝えた。
 叔父・叔母、みんなほっとしたようだった。そんな中、父の実家である小出町(魚沼市)に連絡を取ったところ、いとこが電話口に出た。
「泰治か!小出は今停電が復旧したところで、電話もやっと使えるようになったところなんだ。そのとたん電話が鳴ったので、驚いたよ!」
 小出もかなり揺れ、営んでいる生果店の商品が散乱しているという。
 昨夜の父との話の内容を伝えると安心はしたものの、余震がまだ続いているので予断は許されない、と言っていた。
 小出にいる他の親戚へ連絡をお願いして、電話を切った。
 お昼くらいにもう一度実家に電話をかけたところ、父が出た。ガス・水道・電気はすべてストップし、近所にあるガス水道局の駐車場に車を停め、車中で避難しているということであった。また、実家は崩れていないものの、余震とは言えないほどの大きな地震が続いているため、家の中はメチャメチャな状態であるということであった。特に台所は食器棚が倒れたせいで食器やガラスが散乱し、危ないので靴を履いて家に出入りしているらしい。タンスも中身が飛び出し、テレビは倒れ、重たい仏壇までも大きく移動しているとのことだった。また、水の供給と食糧の配給も少しずつ始まったが、菓子パンやおにぎり、お茶程度なため、温かいものが欲しいと言っていた。
 この父との会話は5分くらいだったが、その間も2回ほど「揺れている!」と父は反応していた。
「どんな手段でいつになるかは分からないけど、とにかく小千谷に行くから待っててね!」
 あてもないくせに、ついそう口にしてしまった。
 父がその言葉に、そして私を頼るなど初めてだった。

3.水戸に到着

 さて、どうやって小千谷に行こうかと考えたが、公共機関を使うことはどうやら無理そうであった。小千谷まで電車では行けないし、それどころか新潟県内すら入れないだろう。群馬もしくは福島方面までは電車で進み、それ以上先へ進めない状況になったらレンタカーを借りようかとも思いついたが、確かな方法ではないし、食料や衣類などの援助物資を持っていくことを考えると難しそうであった。
 そのとき、はとこがごく自然に口を開いた。
 「一緒に車で帰ろう!」
 私にとっては好都合で、断る理由などなかった。しかし、はとこは彼のお母さんと連絡が取れており、帰ってきても仕方がないから帰ってくるな、と念を押されていたのだ。
 後から考えると、私は冷静ではなかった。彼と彼のお母さんとのそのようなやりとりを知っていたのに、彼がどのような思いで「一緒に帰ろう」と提案してくれたのか、そこまで考える余裕がなかった。
 とにかく浅草の叔父の家で、じっとしている自分が許せなかった。しかしこの浅はかな決断が、後日後悔を生むとは考えもしなかった…
 浅草を出発した私たちは、まず私の荷物を取りに私が住む蒲田へ向かった。車中では「小千谷へ向かっている!」という目的があることで2人とも安心感があったし、行動を起こしているということで、自分が置かれている立場を自覚しつつあった。
 蒲田の我が家につくと、私は手際よく準備をした。といっても、持ち物は衣類・防寒具・寝袋程度であったが。とりあえず一週間程度のものを用意した。
 その後はとこの会社住まいのある水戸へ向かった。はとこは翌日の午前中には仕事を片付けて、昼頃には出発しようと予定を立てた。
 食料をはじめとする必要なものは、水戸で買うことにした。まずは停電による寒さの問題や携帯の充電、ガスがないので煮炊きができないことからカセットコンロやガスが必要であると判断した。
 寒さ対策としてはホッカイロやフリース、そして多めの靴下を用意した。実家には大きめの石油ストーブはあるはずなので、火種さえあれば何とかなるだろうと思った。
 食料はカップラーメンや餅、パックのご飯、缶詰、レトルトカレー、日本酒など、一週間家族5人が生活できるだけの量を用意した。
 携帯の充電は、手回し式のライト&充電のできる優れものを用意した。以前テレビで紹介されていたのを見たことがある。
 しかし私にはひとつ気掛かりなことがあった。皆が車内で避難生活をしているということは、寒さをしのぐためにエアコンをつけているはずである。ガソリンはどれくらい消費されるものなのだろうか。もしガソリンが不足した場合、スタンドは機能しているのだろうか。その答えは、翌日テレビで知ることとなった。スタンドも停電によりポンプが使えないため、人力で供給していたし、タンクローリーが来れない可能性があるため少量ずつの規制販売をしていた。スタンドは案の定行列をなしていた。
 ガソリンはどうやって運ぶことができるだろうか?ガソリン専用のタンクが売っていたので、とりあえず5缶用意した。ガソリンを汲むのは新潟県内に入ってからでよいだろう。できる限りの用意を済ませ、その日ははとこの家に泊まった。

第3章 目的の変更
1.今日の安否

 昨夜も余震が続いていた。あろうことか、水戸でも震度2,3の揺れを感じた。
 午前中に何度か小千谷に連絡を入れたが、誰も電話には出なかった。たぶん家にいないのだろう、と思った。
 今日で3日目となるが、実家に電話する際、少しずつではあるが遠慮するという感情が生まれてきた。というのも、家の電話は2階にあるため、家の外で電話の音に気が付いて家の中に入っても、2階に上がらなければ電話に出ることができない。そうこうしているうちに、また大きな揺れでも来たら…と思うと、怖くて電話をかけづらくなってしまったのだ。そのため、日を追うごとに電話をかける回数は減っていった。
 そんな折、友人から電話が入った。昨夜小千谷に到着し、一晩そこで過ごしたという。停電により携帯は必要時以外は電源を切っている人が多いことや、携帯を充電できるものが必要であること、またガソリンの配給がままならないこと、などを友人は電話口で強調していた。 夜は停電のため町中が暗く、車内での生活を余儀なくされている人が大勢いるとのことであった。
 小千谷までどのように行ったのか尋ねたところ、東北自動車道から磐越自動車道に入り、新潟から南下したものの燕三条インターで下ろされ、一般道を使うことで何とか小千谷市内に入ることができたらしい。小千谷市内を流れる信濃川に架かる橋は機能しているとのことであった。友人の家族はみな怪我もなく元気であるとのことで、安心した。
 しかしながら、友人の家の近くには東小千谷中学校のグラウンドがあるのだが、大勢の人がそこで避難生活しているとの話を聞かされたときには、胸が詰まる思いがした。テレビの映像では分かっているつもりであったが、やはり生の声はずしりと重く心に響いた。改めて故郷への思いを感じた。

2.目的の変更

 はとこは仕事に出かけ、私は彼が戻るまでの時間を準備と道中の情報収集に充てた。
 しかしながら、いざ向かうとなると私自身は何の問題もないのだが、はとこのお母さんの言葉が頭をよぎってしまった。
 「小千谷に行くのは、このタイミングでよいのだろうか?」
 「みんなのことを考えられているだろうか?」
 「自分ことだけを考えているのではないだろうか?」
 答えは出なかったものの、自問自答することでかなり冷静になっていた。
 はとこが仕事を終え、戻ってきた。このときの彼の意気込みとは、かなりの温度差を感じた。
 「さぁ!行こう!」という彼の言葉に、待った!はかけられなかった。
 車に乗り荷物をすべて載せ、高速道に向かった。「なるようにしかならないだろう」と、私は何の根拠もなかったが、そのように思っていた。
 必要なものがまだあったので、大型スーパーに寄ったところで、私の携帯電話が鳴った。実家からだった。
 「お前、まさか○○(はとこ)と一緒に来るんじゃないだろうな!」
という父の一言で、私の中では今後の予想が明確に現れた。
 父にはこれまでの経緯をすべて説明した。そんな中、私はあることに気がついた。これまでの父とは全く異なって、パニックに陥ることなく私の話を冷静に聞いてくれているのだ。
 「そうか、小千谷は多少落ち着きを取り戻しているのだな」と私は思った。
 父は言った。
 「今こっちに来ても、お前が被災者のなるだけだ。だからタイミングをちゃんと計れ」
 私は反論する必要も感じなかったし、それどころかその父の言葉を素直に受け入れる用意すらあった。その後、はとこのお母さんが電話に出たので、私は心から謝り、はとこの心根を酌んでやって欲しいとお願いした。
 目的は変更され、タイミングを計ることになった。そして用意した物資は、水戸から車で約1時間程度のところにある取手の叔父の家に預けることにした。
 はとこには誠意を持って説明し、高まる気持ちを鎮めてもらった。彼も土曜日から心配しつづけていたため、心身共にへとへとであった。

3.取手に到着

 無事に取手に到着した。小千谷出身の叔父・叔母も、思うように小千谷と連絡が取れないのに、テレビの映像で何処がどんな被害になっているか手に取るように分かるので、私たち同様にやきもきしていたようだ。
 とりあえず必要な物資はすべて預かってもらい、今後の対策について話し合った。そこで現在の状況をまとめてみた。
1.私はいつでも小千谷に向かえるということ。
2.車で向かう場合、新潟市までは磐越道を使えばたどり着けること。そして公共機関を利用することは無理であること。
3.宅配便は長岡までなら届く可能性があること。
4.取手の叔父・叔母も、もう2.3日すれば小千谷に向かえるということ。
5.応援で行く以上、手伝う・食べる・寝る・着る、すべてのもが用意できていること。
以上である。あわせて今後臨機応変に対応していくということで全員一致し、その旨を明日小千谷に連絡することとし、今日は眠りについた。
 時間的にはあっという間であったが、色々と考えた一日であった。
 その後日、取手の叔父・叔母と相談し、小千谷に行くこととした。テレビでは、余震は少しずつ減ってきているが、この後1ヶ月位は震度5以上の地震が起こる可能性があると伝えていた。

第4章 小千谷に到着
1.小千谷に到着

 今日はとても天気がよく、暖かい一日であった。私たちは常磐道から磐越道を経て新潟に入るルートを走っていた。途中自衛隊の車両が「救援物資」の垂れ幕をつけて走っていたり、重機を載せている車や簡易トイレをたくさん積んでいる車もあった。
 サービスエリアでテレビに目をやると、土砂崩れで生き埋めになってしまったご家族の映像や、まだ救出されていない内容が写されていたが、その現場も私の家の部屋から伺うことができる場所であった。
 小千谷が近づくにつれ胸が高まり、同時にどんな顔をして家族に会えばよいのか少し不安になってきた。
 福島県を過ぎ、新潟県に入った。この辺りは下越地方と呼ばれるが、たぶんここも大きく揺れたと思われるが、車から見える景色は普段と変わらないようであった。新潟市に入っても、特に目立った被害は見られなかった。
 新潟市からは長岡ICに向かって南下することになる。長岡ICから東京方面行きの小出ICまでは、一般車両は通行止めであった。このまま南下を続けていくとひどい景色になるのだろうと予想していたのだが、たまに屋根にブルーシートを掛けた家が見えるだけで、思ったほどではなく少しほっとした。
 結局長岡ICを下りるまでは順調に進んだ。長岡ICから小千谷までは30km程度である。事前に情報収集はしてあったので、それを活かしながら進んだ。
 一般道に入ると、地震の爪あとが少しずつ見えてきた。家の倒壊はないものの、明らかに瓦屋根の家はブルーシートで覆われていた。一番の違いは、至る所で道路の補修工事が行われていることであった。それらの様子は、走れば走るほど目に付いてきた。
 しかしついに通行止めに行き当たってしまった。迂回に迂回を繰り返し、何とか予定のルートに戻ることができた。たぶん余震が続いているので、そのように通行止めをせざるを得ないのだろう。
 なんとか小千谷市内に入ることができた。「やっと着いた!」という気持ちと、これから私自身も被災者になるかもしれないという覚悟が沸いてきた。
 実家まであと5キロを切ったくらいから、周辺の様子が変わってきた。ちょっと広い道路には車が列をなしている。「車で生活をしている…」予め承知していたことなのに、思わず絶句してしまった。
 今まで見てきた景色とは全く異なっていた。家が傾き、道路はガタガタで、電柱は軒並み斜めに傾いている。倒壊している家もあった。
 テレビでマンホールが飛び出している映像があったが、それが目の前にあった。どんどん実家が近づくにつれ、とても怖くなってきた。ガラスは割れているだろうし、家の基礎は傾いているかもしれない…車の窓から見える景色は、これが私の故郷なのかと目を覆いたくなるような感じであった。
 市街地に近づくにつれ、車が渋滞してきた。少し停車していると、救急車のサイレンが聞こえてきた。皆協力して車を端に寄せていた。
 ジャスコはよくテレビに映っていたが、外装は崩れており、店頭で商品を売っていた。しかしながら、他の店は閉まっているし、壁が崩れていたり、看板が倒れたりしていた。シャッターが開いている店は、片付けの作業に追われているようであった。
 実家はもうすぐだ。息を飲んだ。次の瞬間、我が家のすべてが目に入った。
 「家がある!」
 これが実家を見て、初めに思ったことである。  

2.安心と現状

 私の実家は幸いにして原形をとどめていた。また周囲の家々も大丈夫のようであった。家は高床式の建築なので、側面はコンクリートの壁になっているが、ひびは入っていないようだった。シャッターも壊れたようには見えない。しかし、玄関へ向かう階段のところどころに大きなひび割れや隙間が見えた。特に壁には縦2m以上のひびが数本伸びており、その衝撃の大きさが伺えた。
 玄関に入ると家の中の全貌が推察できた。まず床にはガラスの破片や土壁の破片、その他色々な細かいものが落ちているのでスリッパが必要であり、危険防止のためフローリングにはござが敷かれていた。
 またどこにしまわれていたのか分からない多くのものがごちゃごちゃに置かれていた。家中のものがひっくり返されたような光景だった。
 台所に母がいた。
 「ただいま、帰ったよ」
 ごく普通の言葉だが、自分なりに選んだ言葉だった。
 母は台所を掃除していた。掃除というよりは物の仕分け、といった感じであった。話によると、冷蔵庫や電子レンジといったものは倒れておらず良かったが、食器棚は倒れ、ガラスから瀬戸物から大半は割れてしまったそうだ。かろうじて残ったものがダンボール箱に入っていた。母はどこかおびえているようであった。
 父は3階で自分の部屋の整頓をしていた。用意周到な父はヘルメットをかぶっていつでも逃げ出せるスタイルであった。
 「ただいま。帰った」
 「おー、待っていたぞ」
 この一声で一瞬にして今までの見えなかった不安が安心に変わった。
 父はまず私たちに注意事項を与えた。 
 日が暮れるととたんに暗くなるので、早めに仕事は切上げることや、未だ余震が続いているので揺れたらすぐ逃げること、家の中はガラスが散乱したままなので特に気をつけること、などであった。また、祖母は病院で避難しているので、すぐに行って顔を見せて安心させて欲しいとのことであった。片づけをしていた弟に安全な道を教えてもらい、叔父と叔母と3人で祖母のいる病院へ向かった。
 途中崩れかかった家や、がけ崩れをブルーシートで覆っている所、そしてテレビでよく取材されていた全壊した家の脇を通っていった。電気は場所によって復旧していたが、ここの信号は黄色で点滅したままであった。
 やっとの思いで祖母のいる病院に到着した。しかしその中は床に布団を敷き詰めただけの状態で、看護士さんをはじめスタッフの皆さんが慌しくしていた。
 祖母は私たちの顔を見て安心したようで、ゆっくりと地震当日の話を始めた。夕食の配膳がなされた直後で、おかゆを食べようとスプーンですくった瞬間、ベッドが前後に揺れ、お膳は布団や床にこぼれたという。幸い火傷もなく、ベッドの手すりにつかまり揺れが収まるのを待ったそうだ。結局夕食は食べれず、翌朝の配給のおにぎりを食べたという。祖母は5階にいたため、かなりの揺れだったらしい。後日の新潟日報で、病院の迅速でかつ適切なその処置が評価に値するという記事が載っていた。病院スタッフの皆さんには感謝の気持ちで一杯である。今避難している施設は耐震と免震構造なので、揺れもあまり感じないということで安心である。
 5時を回る頃には、父の言う通り辺りが暗くなってきた。家で生活をしている人があまりいないことと、停電であることなどが重なり、この暗さのであろう。そんな暗い道での移動は、道路が崩れていたり凹んでいたりするので非常に危険であった。
 私は家に戻り、叔父と叔母は長岡の叔母の家へ向かい、そちらの手伝いをすることになった。私の小千谷での生活がスタートした。

3.家族との生活

 小千谷での生活は夕食から始まった。食料や水は持参したので、賞味期限が近いものから食べた。生活のすべては、1階の車庫の中にござを敷き詰め、アルミ状のシートを敷き、座布団を利用したところで行った。広さは6畳くらいであるが、家が倒壊した方々に比べれば幸せすぎるくらいであった。また石油ストーブがあるため、その狭い空間はすぐに暖まる。ラジオをかけその日のニュースに耳を傾けながら、家族とその日のことや明日のことを話した。
 5時半くらいになると、町内会のリーダーが顔を出し、配給の知らせと連絡事項を伝えてくれる。ちなみに今日の配給は、菓子パン3個と500mlのお茶2本、バナナであった。せっかくの晩御飯であるが、何だかそそくさと済ませる感じである。やはりいつまた大きな揺れが来るやもしれないという警戒感からなのであろう。ただ今日は私が到着したということで、お酒を飲みながらここ数日の出来事をいろいろ話してくれた。そんな中でも地震が来る。みんな揺れを2だとか3だとか瞬時に判断し、シャッターを開け外へ逃げるかどうかの判断を下していた。
 私は一人オロオロしていた。みんなは先週の土曜日からこんな揺れをずっと感じてきていたのかと思うと、居たたまれない気持ちになった。恐怖からのストレスはかなり心身にダメージを与えていると思われた。
 私は震度3、4クラスの揺れをいくつか経験することによって、やっと家族のそして小千谷の仲間になったと感じ、復興に向ける気持ちがより強くなっていった。
 夜9時には眠りにつく。川の字に布団を敷いた。シャッター横の父はシャッターを開ける係り、弟は母と一緒に逃げる係、とそれぞれ役割分担をしていたが、いつも弟の逃げ足が一番速かった。
 夜中に来る地震が一番嫌であった。眠る時はいつでも逃げられる服装をし、枕元には必要なものを置いておいた。私自身、滞在した約10日間、心かぐっすり眠れるということはなかった。一度震度5弱を体験したが、やはり震度3、4クラスとは全く違うなと感じた。しかも縦揺れの落ちるスピードが全く違うので、面食らう。そして横揺れで恐怖を感じる。さらに大きな違いは、自分と地面の接地面だけでなく、この家そして周囲のすべてのもが動いたような感覚を受けることであった。それからというもの、揺れに対する私のアンテナは鋭敏になり、自動車の音やそれに類似する感覚にさえ反応するようになった。恐怖感が人間に与える対応力、適応力はすごいと思うと同時に、ダメージを受ける大きさは自分自身の意識、無意識状態ではるかに違うとも感じた。
 私は日頃臨床の場面で、身体の痛みや動きの悪さ、機能的な低下をどう克服するかと、日々戦っているが、怖さや嫌だなと思う気持ちが素早く身体に影響を与え、危険からの防衛反応を形成していることを身をもって体験した。そしてこれらのことは臨床に生かすことが必要であろうと感じた。もっともと学ばなければならない。私の家族、親戚、小千谷のみんなの力になりたいと感じた。   

第5章
1.できることは全てやった

 滞在した約10日間、色々なことをした。
 私の担当は台所の片付けとなり、散乱した食器や割れた食器を仕分けたり、この後の地震に備える準備などをしたりした。食器はかなりの量があったため、これらの作業は半日かかった。家族の思い出の品を一つ一つゴミ袋に入れた。またガラス類は細かく砕き、厚めのゴミ袋に入れた。皿は比較的高い位置にしまってあったため、約半分は割れて処分することとなってしまった。
 続いて大まかな掃除をした。倒れた食器棚は片付けてしまい、散らばったガラスの破片など床に落ちているものを処分した。地震時、母は揚げ物をしており、その油が床に飛び散っていたので丹念にふき取った。家事にならなかったことが不幸中の幸いである。
 どういう訳か我が家は冷蔵庫・電子レンジは倒れなかった。それらは周囲の安定化をはかるだけにした。
 台所での作業が終ると、一次的にしまっておいた物の処理に取り掛かった。大きなダンボール箱一杯に詰まったそれらのものの処理は意外と時間がかかった。量もさることながら、捨てる捨てないの判断、ゴミの分別の決定などが大変だったからである。この作業には一日半もかかってしまい、30リットルのごみ袋15袋にもなった。
 その次に倒れなかった本棚の本出しと、それらの梱包に取り掛かった。この本棚は祖母のベッドの脇にあったのだが、地震時に祖母は病院にいたことを考えると何よりの幸いであった。本棚も安定した状態にし、作業を終えた。
 父は家の外壁のチェックをしていた。以前仕事で使用していた平行や垂直状態を確認する工具で、あちこちを調べていた。家の柱や壁は目視でも斜めになっていて嫌な予感はしていたのだが、見事に外れていた。1階部にあたる土台のコンクリートは東西南北どこも垂直であり、これには驚かされた。家の周囲は田んぼでとても安定した地盤であるとは思えなし、実際家の横の田んぼにはおおきなひびも入っていたからだ。
 数日後居間として使用している車庫でもテレビが見れたらいいな〜という思いから、延長ケーブルを買ってきて外壁に穴をあけ工事した。思いのほかきれいに映ったのでよかった。毎日の家族との対話もいいが、テレビは家族のストレスの発散に一役買ってくれた。
 こんな感じに、一つ一つ無理のない程度にできることをやっていった。

2.ふるさと

 私は高校卒業後ふるさとを離れた。それから約15年になるが、今まで家族・家・町・川…すべてあって当たり前という認識でしかなかた。今回の境遇を通して、それら全てに尊さを感じ、失うことや傷ついたことが私の決意を固めてくれた。
生まれ育った土地に対する愛着心、私を育ててくれた環境すべてに感謝できた。
 私は近い将来、小千谷で生きることに決めた。今回の天災がきっかけというわけではないが、私には守るべきものがあるということに気付かされた。まずは月に1度程度帰省し、できることから始めようと決めた。

3.道中

 11月に入り、多少ではあるが余震も減ってきた。生活も安定してきたが、皆口々に「いつまた来るか分からないよ」と互いに意識を高めていた。
 私の仕事のこともあり、帰京の日を決めたが、いざ帰るとなると情報が正確に伝わらず、高速が通行止めになったりと不安定であった。結果的にはバスを乗り継ぎ、越後湯沢から新幹線に乗ることとした。別れを惜しみつつも、バスに乗ってしまうと周囲の居たたまれない家の様子を目の当たりにすることとなり、私の心は休まる暇がなかった。高速道を使い長岡IC〜越後湯沢ICまでの道中も、小千谷〜越後川口〜堀の内とバスの中からもその被害がうかがえ知れた。バスを利用している人には色々な人がいて、皆被害の様子をカメラで撮っていた。私は涙が止まらなかった。辛かった…でも本当に辛いのはここに住んでいる人たちである。現地を見た印象をより多くの人に伝えて欲しいと思うと同時に、明日はわが身かもしれないということを認識して欲しかった。一声だけ隣りのおじさんに言葉をかけた。「もう勘弁してください」私の顔を見たおじさんはカメラを下ろした。

4.感謝

 私は心から感謝する。世界から日本からたくさんの支援を頂き、勇気付けられ、そして生きることの素晴らしさを感じた。仲間からもたくさんの励ましの言葉やお見舞いも頂いた。頂いたあたたかい気持ちをずっと大切にしていきたいと思う。みなさん、本当にありがとう!

私の心にある小千谷の詩

「山あり 河あり 暁と夕日とが綴れ織る この美しき野に しばし遊ぶは 永遠にめぐる 地上に残る 偉大な歴史」 西脇順三郎

(渡邉泰治)

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地図

■葛西ボディケアセンターへのアクセス

〒134-0086
東京都江戸川区葛西臨海町2-4-2
ロッテ葛西ゴルフ練習場内
電話:03-5658-8189/ご予約優先

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